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サッカーコラム

後藤 健生さんはいったい何を言ってるのか。【エルゴラ 14/06/16】

サッカージャーナリストとして古くから親しまれている後藤さんがこんなことを書いている。

ザッケローニ采配の問題点、遠藤を入れたタイミングと「猫の目采配」

ザッケローニ監督は54分に長谷部に代えて遠藤を投入した。長谷部が90分プレーできる状態ではないので、これはプラン通りの交代だったという。だがここで遠藤を入れたことで、選手の意識はさらにバラバラになってしまった。

実は、後藤さんはエルゴラッソ最新号(1461号)でも似たようなことを言っている。

1461.jpg

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「だが、1点をリードしている状況でこの交代は果たして必要だったのだろうか?長谷部が90分プレーできる状態でなかったのだろうが、試合の流れを考えれば交代を遅らせても良かったのではないだろうか?」

中略

「だが、せっかく1点をリードするという、願ってもない展開に持ち込めたのだから、もう少しその状況を生かした戦いができなかったのだろうか?」

中略

「20分過ぎからも再び押し込まれたが、この時間帯も守る戦い方ができた。"目指しているサッカー"とは違うかもしれないが、もう少しこういう戦い方を続けて相手の焦りを引き出すことはできなかったのだろうか・・・。つまり、日本としては試合の進め方は間違っていなかった」

後藤さんは何を言ってるんだ。そんなことができるんだったらはじめからやってるわ。
一方、同じ紙面で隣に並んでいる西部謙司さんはこう書いている。

「現在の日本は"攻撃してナンボ"のチームだ。1-0でリードしているのに、アルベルト・ザッケローニ監督は、後半早々に長谷部誠を遠藤保仁に変えている。守備のためのオプションがないので、2点目を取ることが最上の逃げ切り策なのだ。攻撃至上主義のチームにおいては、2点目を取れなかったことが問題だったと言えるかもしれない」

こちらのほうがよっぽど"現実的"だと思う。

日本代表はガンバスコアが前提

西部さんが「2点目を取れなかったことが問題」と語っているが、まさしくその通りで、コンフェデ以降、日本代表のサッカーは基本的に「大量得点&大量失点」だ。それがベースなのだ。サッカーとは結果的に相手よりも多く得点を取れば勝つゲームであり、その点において日本代表は「取られたら取り返せばいい」というスタンスできて、ここ数年はそれしかできない状態にまで追い込んで今の形がある。

これまでの親善試合でいずれも先制を許し、逆転してきたわけだがそれこそが日本代表のスタンスだった。日本代表は(いまのメンバーとスタイルでいえば)あれが正解で、あれで勝つしかなかった。さらに、親善試合で先制されても逆転したおかげで

  1. 先制されることが課題なのでそこをクリアしなければならない
  2. しかし、先制されても逆転できる力があることはわかった

という、ある意味で最高の調整ができたにも関わらず、先日書いた日本人の慎重さが裏目に出てしまい、「先制点を取られないようにしなければならない」とせっかく"すべて勝利して終わった"はずの親善試合が逆の効果を発揮してしまうことになる。あんなことになるなら、1~2点ぐらいくれてやってもいいから前に出たほうが良かったのだ(それは精神的に簡単なことではないのはわかっています)。

つまり、西部さんの言う通り、現日本代表に「1点差で勝っているから守る」なんてことができるはずが無いのだ。そんなことはいままで4年間の日本代表を見ていれば言わずもがなであるし、各所でさんざん言われてきたことだ。さらに、そもそもそれができるメンバーを連れてきていない。細貝は置いてきたのだから。

後藤さんはいったい何を見てきてそんなことを言ってるのだろうか?

遠藤の投入が「迷う」ってどういうこと?

「ザッケローニ監督は54分に長谷部に代えて遠藤を投入した。長谷部が90分プレーできる状態ではないので、これはプラン通りの交代だったという。だがここで遠藤を入れたことで、選手の意識はさらにバラバラになってしまった。これまでは、後半から遠藤を投入したのは攻めに行くべき状況でのことだった。たとえば、1-2とリードされたオランダ戦。後半、遠藤を入れた日本が攻勢をかけて追いつくことに成功した成功体験もある。それだけに、遠藤が投入されたことで選手たちの意識は攻撃の方向に傾いたことだろう。

だが、1点リードした状態のコートジボワール戦での遠藤の投入は、どう理解すべきなのだろうか?ザッケローニ監督は1点取りに行きたかったのだろうか?」

1-2で遠藤が投入されると攻撃の意思表示となり、1-0で遠藤が投入されると何の意思表示かわからないというのは、その時点でダブルスタンダードだと思うんだが、それにしても今の日本代表において遠藤の投入が「攻撃の意思でない」という可能性を受け取ることの方が不思議な気がするんだが、全国のサッカーファンもそうなのだろうか?

いや、もっと正確に言えば、遠藤は独力突破をするタイプでもスペースに飛び出すタイプでも、中村俊輔のような一発のファンタジーで局面を打開する選手ではない。この選手は、長短のパスとポジショニングを駆使してパスワークを組み立てゲームをコントロールする選手だ。遠藤が投入されるということは、どう考えても「丁寧にパスを繋ぐ」が基本線でありその先に「攻撃」がある。

「パスを繋ぐ」という戦術には、その効果として単純な得点だけではなく「攻め急いでいるチームを落ち着かせる」という効果を狙うこともある。ただ、そのいずれにしても「パスを繋ぎ自分たちが主体となってゲームをコントロールする」ということを狙うものであって、少なくともラインを低く設定してブロックを形成して守るという話ではない(そんなことをしたら自陣深くでボールを回すことになり危険極まりない)。だから、強いて「それは攻撃意識なのか守備意識の指示なのか」と問われればそれはどう転んでも「攻撃意識」だろう。

さすがに、このスタイルがある上で遠藤を投入していることに対して「選手の意識がバラバラになった」というのは自説を強めたいだけの強引な論理だとしか思えない。どこの世界に対人守備でほとんど役に立たない遠藤を入れて「これは守備をしろということだ」と思う奴がいるんだ
申し訳ない。正直に言うが、サッカージャーナリストとしてはもうポンコツなんじゃないか?とさえ思ってしまう。

自説を訴えたいがためにこれまでに見たことのない非現実的なスタイルを持ってくるのも、選手の個性を無視したような論理を持ってくるのも、さすがにどうかと思うんだが。


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