センターサークルのその向こう-サッカー小説-

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サッカーコラム

高校サッカー選手権も終わったので、過去20大会を振り返ってみるよ-その1-

そういえば、もう長いこと毎年高校サッカーを観ているなと思って。
自分の備忘録も兼ねてまとめてみようかなと。
完全に自分の独断と偏見によって書きだしたものなので悪しからず(いろいろ)。

そしてキリが良いのでって言いたいけど、自分がちゃんと覚えているのがいまから20大会前の75回大会(1996年度大会)なので、そこから振り返っていこうかなと。でも記憶ベースなので事実とだいぶ違うかもしれないのでそこんとこはご指摘いただけると嬉しいです。

ではさっそく。


第75回(1996年度)

第75回と銘打っておいていきなりそれより過去の大会の話をするが、実はこの一つ前の大会も覚えてはいる。たしか、静学(静岡学園)と鹿実(鹿児島実業)がどちらも延長まで譲らず、最後の「両校優勝」になった大会だったはずだ。ただ、それ以外覚えていないのでw次の大会の話から進めるが、つまり、これ以降はPKがあり、必ず単独優勝校が生まれているということだ。

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今大会の優勝校は市立船橋(千葉県代表)。
最近の若い人たちは知らないかもしれないが(筆者は現在36才)、大迫(後に鹿島)、平山(後にFC東京)の前に大会通算得点記録を持ち、伝説的な活躍をしたFWというのがこの市立船橋のエースストライカー北嶋秀朗だった。たしかな技術と182cmという当たり負けしない身体に、類まれな得点感覚を持った北嶋は、実はその前年の74回大会、さらにその前年の73回大会にも出場し、その73回大会でも優勝している。

素晴らしいFWだったのが柏レイソルでプロデビューしてからはプロの壁にあたり伸び悩んだ。その後少しずつ頭角を現し、レイソルのエースになりトルシエ率いるU22、A代表にも選出されたのだが定着するまでには至らず(たしかアジアカップ2000には出ていた気がする)、その後は清水エスパルスに行ったり、レイソルに戻ったりしたがついに高校時代を超える活躍は見せられず引退してしまった。決して全く輝かなかったわけではないが、高校時代の活躍からするともっとA代表に入ってきてもおかしくなかっただけに残念。

さて、ここまで北嶋の話に終始してしまったが、今大会最も印象深いのはその北嶋ではなく、やはり今もなお生ける伝説として横浜に君臨する中村俊輔その人であろう。
マリノスJrユースから昇格できず桐光学園に進んだ彼は、そこから不屈の精神で桐光学園の10番を勝ち取り、さらにはU18の司令塔にまでのぼり詰めて迎えた今大会だが、残念なことに風邪をひいて発熱した状態で大会に臨んでいた(余談だが、彼はこのあとW杯でも体調を崩すことになり、ある意味で"持っている"というかなんというかな選手だ。それがまた良いんだが)。
にもかかわらず、サッカーファンの心をつかんで離さない天才的なプレーを魅せ、あの名波に「俺より上手い左利きが出てきた」と言わしめるのだから、天才とは彼のことを指すのだろう。

はっきり言って語るより観たほうが早いだろうということで、動画を貼り付けておく。 実は、中村俊輔は前年の74回大会にも出場している。初戦で大会から姿を消すことになるが、相手がその後ベスト4まで勝ち上がる東福岡だったのだから仕方なかったのかもしれない。その東福岡にいた古賀正紘(後に名古屋グランパス、U22)から「お前のいた桐光学園が一番手強かった」と言われたという。

卒業後の中村俊輔の活躍はご存知の通りだが、高校サッカーにおいて「桐光学園の10番」といえば現在まで語り継がれる特別な存在だ。中村俊輔、藤本淳吾(後に清水)、立命館を経て京都、現在は北九州の内藤洋平、そしてこの俊輔以来のベスト4を達成した91回大会の松井修平(現在は同志社大)と受け継がれてきたその伝説の始まりは、この中村俊輔から、この75回大会から始まったのである。

余談につぐ余談だが、中村俊輔といえば背番号10番の他に、セルティックで着けていた25番も記憶に強く残っている方が多いのではないだろうか。その後、横浜Fマリノス復帰後もつけることになるその番号は、彼が高卒ルーキー時代につけていた番号である。つまり中村俊輔のプロ選手生活は横浜Fマリノスの25番からはじまったのであり、おそらくセルティックでその背番号を選んだのも初心に帰る思いがあったのではないかと思う。

さて、この中村俊輔と25番であるが、これはマリノス側が新卒入団時に意図して用意したものだということは意外と知られていない。
クラブ側は彼に強く大きな期待を込めてこの25番を渡した。それは、その後クラブを背負って立つ選手に成長してほしいという願い、想いだ。その16年前に同じ背番号をつけた彼のように。16年前の彼とは「ミスター・マリノス」と言われた、元日本代表の司令塔であり、韓国戦で伝説のFKを決めた、そう、木村和司である。
マリノスは、中村俊輔に木村和司と同じように将来10番を背負いクラブの象徴的な選手に育ってほしいと願い、25番を渡したのである(たしか選手寮の部屋も同じ部屋を用意したと当時何かで読んだ気がしたが、覚えていない・・・)。

栄光も挫折もある中村俊輔だが、クラブにここまで期待をされ、その期待をここまで体現した選手はそうそういない。中村俊輔は日本サッカー史にその名を残す偉大な選手なのだ。


第76回(1997年度)

前もって言っておくが、この文量で全大会をふれていったら書く方も読む方ももたないw読者の皆さんには大会によって起伏があることをあらかじめ知っておいてほしい。 

といいつつさて第76回大会だが、この大会も話題に事欠かない。
なぜなら、この大会こそ日本サッカーの一時代を築いた「黄金世代」の大会だったから。
この大会は完全に東福岡の大会だ。
これから語るすべての大会においてもここまで最強を誇った高校は無いんじゃないか、あっても一つか二つかといえるほどに強かった。毎試合圧倒的な強さで勝ち上がる東福岡と、当時まだ高校サッカーの歴史において最も星を持っていた、つまり(戦後)最多優勝校として君臨していた帝京との決勝戦は本当にワクワクした。戦前からワクワクしたが、この試合は「雪の決勝」として今も語り継がれていることでご存じの方も多いかもしれない。

東福岡には本山(後に鹿島)、古賀誠史(後に横浜マリノス)、宮原(後に名古屋)、手島(後に横浜フリューゲルス)、金古(後に鹿島)、千代反田(後に福岡)という豪華すぎるほど豪華なメンバーがいて、この大会をとることで最終的に史上初の高校3冠を達成することになる。

帝京にも中田浩二(後に鹿島)、木島良輔(後に横浜マリノス)らがいてじゅうぶんに強かったが、東福岡には及ばなかった。ただ、大雪の中でのサッカーになってしまったため、ショートパスとドリブルを多用する帝京には運が悪かったという評もあり、青天でのプレーであれば結果は違ったかもしれない。

で、驚くべきはこの大会には同じ黄金世代の高原も、稲本も、そしてこの世代の押しも押されもせぬリーダーである「天才」小野伸二が出ていないことだ。鹿島の大黒柱である小笠原、後にA代表最多キャップ数を誇ることになる遠藤保仁も出ていたこのスター軍団の今大会にもかかわらず、大会に出ていないメンバーに彼らがいることが何よりも「黄金世代」であることの証明だったのだと思う(小野、高原は県予選で敗退、稲本はユースあがりのため選手権には出場していない)。選手権で大スターになった本山、中田浩二ですらU20代表ではスタメンすら危うくなるというのだから、恐ろしい世代だった。


第77回(1998年度)

前大会とはうってかわって、この大会はあまり記憶が無い。
・・・というのは言い過ぎで、それなりに記憶には残っているのだが、いかんせん前大会が衝撃的すぎた。ただ、そのなかでも注目すべき部分はあった。

今大会はなんといっても前大会にて3冠を達成した東福岡が、その後苦しんだ末に再び選手権を勝ち上がって全国の覇権を取りに来た、というストーリーこそ注目されたところだろう。さらに、その決勝の相手が再び帝京高校だったのだから、もはやマンガの世界の話のようだった。

今大会において最も注目された選手といえば、前大会から東福岡の中盤に2年生ながらスタメンとして名を連ね、この大会ではその圧倒的なキープ力とパスセンスで超高校級とうたわれた宮原だろう。前回大会から大会優秀選手に選ばれたその才能は当然翌年の最上学年となればさらに他を圧倒するほどになり、高校No.1司令塔だったのは間違いないが、残念ながら(たしか右太ももだったか)怪我を抱えていたため、最後の年は大きな活躍はできなかった。いや、それでもこの選手権においては圧倒的なプレーを見せていたのだが、彼が1年通して活躍していればこの年の東福岡の成績はもっと違ったものになっていただろうと思う。

180㎝の恵まれた体躯をいかした懐の深いキープと高い技術から繰り出されるパスやキープは非常に強引な例えだが、高校年代においてはまるでジダンのような存在感で、その証拠に一つ上の学年、つまり前述の黄金世代が中心となるU20候補(後にワールドユースで準優勝をするチーム)に大会後に選出されたほどだ。最終的にメンバーに残ることはできなかったが、一つ下ながらあの世代に食い込んだことができただけでもすごいことだ。

また、この大会といえばあのスーパードリブラー田中達也がデビューした大会としても記憶に残っている。選手に対して常に辛口な対応で知られるあの名将・古沼監督が手放しで褒めたというキレッキレのドリブルはとても印象的だった。他に、林丈統(後に千葉)が得点王に輝いた大会でもある。たしか当時まだJクラブから内定をもらっていなかった彼は「就職活動」と言い放った記憶があるのだが、ソースが無い・・・(ちなみに同様の発言は選手権において複数の選手がしばしば行うものなので、彼一人がオリジナルということはない)。

実は大会前には玉田圭司(後に柏)が注目されていたのだが一回戦負けとなってしまい、世間ではあまり騒がれずに終わってしまった。(そしてその後、驚異的なフィジカルを身につけて世間に出てきたときは本当に驚いた)。他に、決勝でハットトリックを達成する東福岡の山形(後に広島・・・というより福岡か)、帝京には「和製ロナウド」といわれた矢野がいた。

ちなみに、あえて動画のあとに書くがTBSの「炎の体育会TV」に雨上がり宮迫らと良く出ているお笑い芸人のディエゴ・加藤・マラドーナもこの世代のはずだ(が、全く記憶にない)。

また"ちなみにつづき"としてこの大会のイメージソングに採用されたCURIOというバンド(曲は「祈り」)はこのちょうど1年後の2000年2月にボーカルが覚せい剤所持で逮捕されるという、青少年育成の場である高校サッカーのイメージソングに選ばれたバンドとしては最もやってはいけないことをやってくれた。まったく本当に「どうかしてるぜ!(Ⓒブラマヨ吉田)」な話である。


第78回(1999年度)

THE田原豊の大会である。
いや、本当は違う。

本当はDFラインから中盤、最前線まで豊富なタレントを要する市立船橋がその強さを見せつけた大会だ。羽田(後に鹿島)、中澤聡太(後に柏)、原竜太(後に名古屋)そして2年生だった永井俊太(後に柏)、本橋(後に横浜Fマリノス)もいたはずだ。最終的に鹿実を倒して優勝するのだが、なぜかこの大会はマスコミがその鹿実の田原を推しまくっていた記憶がある。

たしかに当時としてはめずらしい「長身だがテクニックのある選手」としてもてはやされていたが(ちなみに数年後にそのすべての評価を阿部祐大朗に持っていかれる。その阿部祐大朗もその後に平山相太に持っていかれる)、そもそも当時の田原はまだ2年生で来年もあった。というか、最も不思議だったのはその田原に天才的なパスを供給していた松井大輔(後に京都)の方をなぜもっと取り上げないのかということだった。おかしい、よくわからん。

というわけで、ここで最も語りたいのは松井大輔その人である。
卒業後に京都でデビューし、その後フランスに渡り「ル・マンの太陽」と呼ばれることになる彼だが、高校年代~京都時代はその後フランスでのドリブル無双になる前で、ヒールパスとかオシャレでトリッキーなプレーをする"ひよわなか弱い"そして監督からよく怒られる(さらに本人はまったくそれを気にしない)いわゆる「典型的なファンタジスタ」だった。
ゆえに、だからこそ面白かった。
田原の後ろでボールをこね、トリッキーなプレーで会場を沸かせるそれは、この大会随一のファンタジスタのそれだった。

残念ながら決勝戦で最強市立船橋に敗北を喫することになるのだが、それもまた悲運のファンタジスタの系譜というものだろう。ロベルト・バッジョ、そして中村俊輔と同じように。
(残念ながら今大会の動画は良いものが見つからず・・・)


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