「―あるとしたらそれは"バカ"がいるかどうかだけだ」
昨日、こんなことを書いた。
今日はその続きのようなもの。
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昨日の記事でも、男脳女脳の話についてこんなことを書いたが
けれども、大半は「だからどうした」という話で、どんな個性であろうが目の前の問題を解決するためにベストな選択をしなければならないことに変わりはない。女は感情で動くと言われようが、そんなもの関係ない。感情だろうが理屈だろうがやらなきゃならんことはやらなきゃならんし、逆に理屈だけ積み上げてもできないもんはできない。やるべきことをちゃんとやりましょう、という以外にすべき話などないと思っている。
これはそのまま「論理的」と「感情的」と置き換えることもできる。そして、論理的か感情的かなどという議論ほど無駄なものはないと思っている。本当に時間の無駄な、お互いがお互いを理解しようとしない愚かな時間だ。
そもそも、人間の行動に感情が絡まないことなどない。仮に、論理が先行しがちな男がいたとして、それは感情がないのではなく、自分の感情に気付くのが下手くそなだけだ。そして、「あなたには感情が無いのよ!」なんて論理的な話に反論する女は、ただ単に相手の言ってることが理解できないバカな女なだけだ。そこに論理も感情もない。あるのは、それが正しいか間違いか、すべきかすべきじゃないか、それだけしかないことなのに、やたらとお互いを異物と断定して難しく考える。
感情は感情であって論理的だろうがそうじゃなかろうが存在する。例えば
「お母さんはこういうひとで、昨日ちょっと横でみてたらこういうことで困ってたから、こういうプレゼントが良いと思って買ってきた」
のどこに感情か欠如しているのだろうか?まったく感情は欠如していない。大好きなお母さんのことを想い、お母さんの生活から喜んでもらえそうなことを一生懸命考えてプレゼントを選んだことを、論理的に思考・説明しているだけで、本質は「お母さん大好き!プレゼント買ってきたよ!」という子と1ミクロも変わらない。
しかし、それが理解できない人はその子のプレゼントが気にいらないと、「あなたは論理で考えてる。私は感情で考えるタイプ」とまるで私が大正義みたいな表現をする。ただ単に、その人が頭が悪いだけなのに。
「論理的」とは本来、思考や表現のスタイルでしかないのだ。
人間の行動は感情に左右される、いや、そもそもスタートは感情でしかない。
ラーメンを食べて美味しいと思うのは味が美味しいからであって、「この麺と、この和風ダシと、この醤油ダレが入ってる。つまりこれは美味しい」だなんて思う人の方が稀で、稀にそういう人はいるがその人はラーメンを食ってるのではなく情報を食ってる味覚バカなだけだ。
ちなみに、これはこれで「情報を食してるオレかっこいい」という感情がスタートになっているだけの話で、つまりその人には「あなたには味覚が無いのよ」とは言えるだろう。しかしそれでも感情が無いわけではない。
人間の行動というのはすべてもともと感情であって、それをどう表現する、どう思考するかというときに「論理的に表現する」か「感情的に表現するか」でしかない。
故に、僕は「それは正論だけど・・・」というフレーズもおかしいと思っている。
「それは正論だけど・・・」と言いながら、その論理に従うべきでないのなら、それはその時点で正論ではないだろう。だって、「正しい論理」と書いて「正論」なのだから。
「論理的には正しいけど、その通りにすべきではない」というのは、それはその論理が間違っているだけの話だ。
いや、そんなものと冷静に考えればそうだろうという話で、「論理」というのは、物事の道筋であり、ゴールから逆算するならばそのゴールにたどり着くまでの道筋や展開なのだから、ゴールにたどり着けない時点でそれはもう間違った論理だろう。つまり「正論」という時点で、得たい結果にたどり着ける論理であるべきで、そうではないものを「正論」というのはもう日本語として成立していないのだ。
例えば、「お母さんがいつも忙しそうだから、"時短のススメ"っていう本をプレゼントしようと思う」ということに対して、「論理的には正しいけどそれはあげるべきじゃない」というツッコミが入ったとして、よくよく聞いてみると「たしかに時短テクニックはお母さんに必要かもしれないけど、お母さんはワイドショーに出てるその著者が嫌いだから、もらっても嫌がると思う」という話だったとする。
これは、スタートの時点で「お母さんの感情(好き・嫌い)」という重要なファクターが抜け落ちている「間違った論理」であって、つまりもうその時点で「正論」ではないのだ。言い換えれば「論理的に正しくない」。
このように、「論理」というものはそもそも「感情を組み入れる」べきであって、あるべき感情が抜け落ちている時点でそれはもう正論ではない。そして、あるべき感情やその他のファクトが抜け落ちた理論のことを、僕は「理屈」と呼ぶべきだと思っている。
つまりこういうことだ。
- 理屈=合理を積み上げただけ
- 理論(論理)=説明や思考のスタイル
- 正論=正しい理論(論理)
近所の安いスーパーがあるというのに「なんかあそこは行きたくない」という理由でわざわざ遠くの高いスーパーを選ぶのはやめるべきだ。毎日の食費に関わる話で、間違いなく家計に大きな打撃を与えることになるのだから、好きとか嫌いとか言ってないできちんと家計と向き合い、経済的に助かる安いスーパーを選ぶべきだ。
しかし実はその理由が「店員の対応が著しくひどい」ということだとしたら、そして例えばその差額が3%にも満たない程度の価格差なら、それは遠くて高いスーパーでもそちらを選ぶべきなのかもしれない。毎日のように通うスーパーでストレスを抱えるのはそこに行く本人なのだから。そんなことでストレスを抱え、毎日が苦しくなるのなら、多少高くても毎日笑顔でいられる方を選ぶのは決して愚かな選択ではないだろう。
これは論理か感情かなんていう話ではない。
得たい結果に対して、感情も含めたファクトを拾い集め、適切な選択をするという話であり、それを論理で思考するかどうかの話だ。そして、世の中の大半のことは論理で思考し、表現した方がうまくいく。うまくいかないのは相手の心に問いかけるときであり、そのときは感情で訴えるべきだろう。
そう、だから「相手に対していま論理で訴えるべきか、感情で訴えるべきか」というスタイル選択の話であって、これは二項対立する話ではない。すべて「幸せ」という最も重要な「感情」に基づいたものであることに変わりはないのだから。
そういうことに対して「あなたには感情が無いのよ」なんて言ってしまうのは思考停止であり、相手と向き合おうとしていない愚かな行為であるし、要するに相手がわざわざ論理的に表現していることが理解できない、頭が悪いだけだ。
一方で、相手の感情にアプローチできない男の方も、自分が言ってることが「正論ではない可能性」を省みることができないバカなだけだ。要するに、お互いがお互いを異物扱いして理解しようとしていない。自分の感情に気付きづらい人もいれば、自分の感情を言語化するのが苦手な人もいる。どちらも言い方を変えれば「バカ」なだけで、どっちもどっちだろうし、たぶん、人と付き合う、パートナーを選ぶというのは「相手のバカな部分に対して自分がどれだけアプローチできるか」なのだろうと思う。
一時期よくシェアされていたこの話も、
結局のところ「自分がいま悲しいということをきちんと相手に表現できない察してチャン」と「相手は問題解決を求めていると勝手に思い込んでいるバカ男」の話でしかない。要するにどちらも相手に寄り添ってないだけの話で、問題解決か、感情かなど表面的な話に過ぎないし、二項対立する話でもない。フラットな目で、相手がいま何を思っているのかを一生懸命考えてコミュニケーションをとってない、お互いがバカなだけだ。
「論理か感情か」なんて、それこそ頭の悪い人達がなんとか自分を正当化しようとしているだけのフレーズでしかないし、あるべき感情が抜け落ちた論理は、正論ではない。
みんな、ちゃんと1から考えればわかることなのにね。
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