センターサークルのその向こう-サッカー小説-

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コラム

子供の泣き声は騒音ではなく自然(災害)の音。

こんな記事を見つけた。

子供の泣き声がうるさいと隣人に怒鳴られて、更に警察を呼ばれました

隣人から嫌がらせを受けるようになりました。

ドアの開閉を大げさにバタンバタンしたり、我が家の玄関の前に虫の死骸が散らばっていたり、壁をドンドン叩いたり・・・。

音に関してはこちらも迷惑をかけているので何か言う事は出来ませんし、虫の死骸に関しては証拠が無いのでどうしようもありません。

一度、頼んでもいないピザの宅配が来たこともあります。

更に、子供が泣いているその瞬間に、隣人が怒鳴り込んできた事もあります。

「こっちだって静かに暮らす権利があるんだぞ!!」

こう言われてしまうと、ただ謝る事しか出来ませんし、隣人に迷惑をかけているというプレッシャーから、私自身も眠れない日々が続いていました。

そんな日々を過ごしてボロボロになっていた頃、警察が訪ねてきました。

「お宅に虐待の通報がありましたので、お子様を見せて貰っても良いですか?」

いやー、すごいなこれ。

はてなブコメでは「隣人が異常」「何の対策もしてない筆者がダメ」と賛否両論のようで。

僕は、これは「隣人が異常」という事案にして良いと思う。

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昔、祖父と喫茶店でコーヒーを飲んでいたときにこう言われたことがある。

「人は、子供を二人産んで育てて1人前。だってそうしないと減るから」

まあ、たしかに・・・と当時思ったことを強く覚えている。

二人産んで、というのはもちろん結婚前提の話なので、つまり「夫婦二人で子供二人以上は育てろ」という意味だ。

誤解しないで欲しいのだが、僕はべつにこれに賛同したからといって、子供を産まない育てない人間が半人前だとか、世間から虐げられて当然だなんてまるで思っていない。そもそも、僕は37にして未婚で子供もいないのだから。

けれども、この「子供を産んでもらわないといずれ立ち行かなくなる」というのは紛れもない事実であり、そして逃げられない現実でもある。

「国」というのは規模が大きすぎてその感覚が薄れてしまうが、言ってしまえば国とそこに住む人々というのは「運命共同体」とその「組織体」だ。家族のなかで誰かが家事をやり、誰かが犬の世話をして、誰かが力仕事をするという役割分担と本質的には何も変わらない。ある人は警察官として治安を守り、ある人は電力会社の人としてインフラを守り、ある人は政治家としてその運命共同体である組織の運営に携わる。それぞれが各所で自分の役割を全うすることで一つの「国」を維持しているというわけだ。

そのなかで、最も重要(というより正確には「最も多くの人に求められる」)なのが、「子を産むこと」ではないだろうか。なぜなら、警察官になるにしてもインフラを守る人になるにしても、そもそもある一定以上の「人」がいない限りは国は存続できないのだから。

ゆえに、「社会のなかでなにがしかの役割を担うこと(=働くこと)」と同じレベルで、「子を産み育てること」というのは国民に課せられた義務や責任にあたるものだと思う。そもそもとして、自分たちがいまこの国で安心して暮らせているのは、親が自身を産んでくれたからであるし、親はその親に産んでもらったのだし、国の治安が保たれるのも、インフラが守られているのも、娯楽があるのも、すべて「そこに人がいるから」であり、「先人たちが子を産み育ててくれたから」こそ、僕らは生活ができている。

僕は、万人がこれを忘れてはならないと思うのだ。
もちろんそれは先人や年配の方だけ敬えということではなく、先人たちがつくりあげてきたもののおかげで生活ができているのと同じく、自分や自分の大切な人の子孫が安心して暮らせるためにそのバトンを引き継いでくれる、「未来の先人たち」になるであろう子供、若者にだって同じように敬意を払うべきだと思う。

ただ、そのなかであえて濃淡をつけるとするならば、それは「子供を育てている人の方にほんの少し偏る」ぐらいでちょうどよいのではないかと思っている。僕ら未婚(正確には子供を産んでない)の人間は、ある意味では「国民の責任を全うせずバトンを絶たせている張本人」という言い方もできる。国を維持するためにもっとも重要な資源に対して貢献していない。

それが悪だと言いたいわけではない。
成熟した社会というのは多様性のある社会のことを指すと僕は思っていて、子供を産まないからといって落第者のような扱いを受けるような社会は、とても発展の遅れた社会そのものだ。子供を産もうが産むまいが、どちらの人だって幸せに生きられる価値観や社会制度があるべき姿であり、そこを目指さなければそれは社会の衰退と言っていい。

だが、その「大前提」という土台の上には「子供を育てる人を中心にした社会」であるべきだと思う。それなしに、そこまで完全に万人を平等に扱っていたら、最も社会に貢献する「子育てをしてくれている人」がどんどん減ってしまう。そんなことしたら国はつぶれてなくなってしまう。

そういう意味では「子供を育てる」というのは親子だけの話ではなく、国が正常に安全に維持されていくための「国民全員が意識すべき大切な業務」であり、さらにいえば僕らだって産まれてからその中で育まれて大人になったということを忘れてはいけない。要するに、社会のなかに子供がいるというのはとても自然なことでありそして当然なことで、僕ら大人はそれを前提に生きていかなければならないのだと思う。

つまり、「社会のなかに子供がいるということを当然として自分の人生を設計していかなければならない」のだ。

だから、子供の泣き声は「騒音」じゃない。それはもう自然そのものであって、(あえてネガティブな表現をするなら)台風や雷と同じ「自然災害」と捉えるべきで、それがある前提で、そしてそれが嫌なら自分からそれを避けるような行動を選択すべきなのだと思う。

くどいようだが、それは「子無しには人権がない」ということではまったくない。そんなことあっていいはずがない。そうではなくて、社会には子供がいるのは当たり前で、それを避けたり、意識したり、少しの配慮をするのは子供を持たない側であるべきではないか?と言っているだけで

冒頭の記事の件でいえば、「自分が生きている社会に子供がいるのは当たり前」なのだから、それを避けたい、泣き声が気になるのならば、それを選択して行動すべきは「子無し」の方ではないだろうか。「当たり前」に対して「それが嫌」ならば、「当たり前が避けられるところ」を選ぶべきなのは"当たり前じゃない方を選択している方"だろう

嫌だったら防音対策バッチリの部屋にでも引っ越せばいいし、子供が多くない単身者向けのところに引っ越せばいい。経済的にそれができないのは本人の問題だろう。稼げないんだったら何かを我慢するしかない。

もちろんそれは子供を持つ側にだってできないことはないが、この上そんなハードルまで設けたらいよいよ子供を産む人なんていなくなってしまう。

これは、なにも「子供を育てているんだからふんぞりかえっていい」なんてことではない。子供を産んでいようが子無しだろうが誰だって周りへの配慮は必要だし、悪いことをしてしまう子供を野放しにしていいはずもない。でも、もし、ファミリーレストランで走り回る子供に、きちんと母親や父親が叱っているなら、それは多少不快でもほほえましい顔で見守ってやればいいじゃないか、嫌なら子供が入れそうにないお店にいけばいいじゃないか。そんなお店に行けないのはあなたの問題だ。

そうやって「子供を育てる人を中心にした社会」じゃないとこの国がなくなってしまうし、僕らだってそうやって育んでもらったんだから。

僕はこの先も結婚する予定も子供をつくる予定も一切ないけれども、だからこそ、いま子供を必死に育ててくれている人たちに敬意を表し、そしてこの国をつくり存続させてくれたすべての先人たちへのお礼も込めて、この文章をここに記します。



ありがとう。


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