その点に関しては大湊も察していたし、これだけの粒が自分の元に集まったのも全ては彼等選手にとって同じ地域にスターが存在したというその運命の不条理によるものだと認識していた。全ては偶然だと。しかし、彼等新入生と接するにつれ、どうも自分の認識のずれを次第に認知するようになる。
「センターサークルのその向こう―サッカー小説―」アーカイブ

当初こそサッカーに情熱を燃やす林原は松ノ瀬中のような「弱小校」に通うのを嫌っていたが、通うにつれ次第に文句を言わなくなったと親御さんから後に大湊は聞いている。ともにボールを追い掛けるうちに、仲間の「素材」に気付いたのかもしれない。
FWには右にチーム一の俊足ストライカー 柳橋 明に、センターでの立ち回りがうまい高橋 公樹、フィジカルは無いがパスと裏への飛び出しが持ち味の佐村 和隆がいたが、どの選手も一定の水準は保っている。
GKの山井 勝は飛び出しのタイミング、ガッツ、そして番長とも言える自信に溢れた人間性も含め紛れも無く新入生の中でも際立つ才能を持ったGKだ。
センターDFの二人、渡辺大紀と佐藤洋介の二人は小学校時代からコンビを組むカバーリングマンと当たり屋のセンターバックコンビ。
サイドDFの和田一樹と広山隆は守備に計算の立つ卒なくこなすタイプのサイドプレイヤだ。
生涯をサッカーと共に過ごして来た自分にとって、仕事でサッカーに携わることが出来るというのは、意欲を掻き立てられるものであったが、松ノ瀬中を選んだのはサッカー古豪だからという意識はなく、またサッカー強豪校にしようなどという野心もない。単純に家からの距離が近く、また空気の良い高台に閑静な住宅街の中で最も高い位置に校舎を構えるその環境が気に入ったからだ。もっとも、より近い所にも中学校があったのにも関わらず、無意識に松ノ瀬中を選んだ事は、やはりどこかで自分の選択の中にはサッカーという要素が入り込んでいるのだろう。
神奈川県湘南地区に位置する市立松ノ瀬中が、そのサッカーが盛んな藤沢市の子供達が一手に集まるサッカー強豪校だったのはもう20年以上昔の話となっている。松ノ瀬中に集まっていた地域の才能ある子供達は姿を消した。同じ湘南地区にサッカー強豪校が「誕生」したためだ。Jリーグがはじまり、空前のサッカーブームが生まれた昨今、その初期の(後に大不況となる)第一次サッカーブームが93年の出来事だった。1993年当時、Jリーグ発足に睨みをつけた松ノ瀬中と同じ湘南地区に巨大な敷地を持つ湘南学苑は、サッカー推薦を90年より取り入れる事を決定する。サッカー強豪校となり、より生徒数を増やす事が目論みだと後に湘南学苑サッカー部を解雇された大湊は聞いている。

「瀧河!」
大湊は睨みつけるような視線をピッチに向けたまま、隣に座るサブメンバーが飛び上がるのではないかというほどの大声で叫んだ。
「はぁ~い」
瀧河耀太(タキガワヨウタ)はけだるそうな声で返事をし、ピッチの脇で行っていたアップを切り上げ大湊のもとへ向かった。所属するサッカー部の監督である大湊に対し、耀太はそのストレート過ぎる表現や、いつ何時も緩むことの無い目付きと表情に、相対しづらい苦手とする感情を抱いていたが、しかし一方でその優れた戦術眼に一目置いているのもまた事実だった。むしろ、耀太にとって大湊は接しづらい人間だったとしても、煙たがるような扱いは毛頭する気にはなれない人物。それが耀太の中での大湊であった。
耀太にとって大湊を無視できない存在になったのはそう遠い昔のことではない。12歳の誕生日を間近に控えた時期に、交通事故で生死をさ迷う経験をした耀太は、命の確保と引き換えに利き足である右足に大きな怪我を負った。若さもあり、複雑骨折を起こしていた耀太の右足は半年という長い期間を経て無事完治したものの、皮肉にも小学生低学年から続けていたサッカーへの情熱を奪われる結果となった。